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世界有数の災害大国なのに、避難所は後進国

日本列島は世界でもトップクラスの災害多発地だ。
地震、台風、津波、噴火などの災害が容赦無くいつでも襲ってくる。
そんなことは子どもでもわかる。
でも、大人になると鈍感になるのか、そんなこともわからなくなるようだ。

先日の熊本大震災には心が痛むが、さらに追い打ちをかけて心を痛ませるのが、被災者たちへの絶望的な支援不足だ。

もちろん、現場が大変で必死なのはわかる。でも、いつも見せられる光景は、学校の体育館などに密集して避難させられる悲惨な被災者たちの姿だ。体育館の床に人々を密集させる光景だけを見れば、昭和からどれほど進歩したのだろうと思ってしまう。

日常の平和を失った人々が何とか生き延びても、その後は衛生、栄養、プライバシーが極度に不足した環境に耐えなければいけないという過酷な現実。AIやロボットなどの華々しい技術は進化している。それなのに、災害時のトイレ、食事、睡眠、プライバシーという、人間が生きるための基本的な環境は十分に改善されていない。技術がないのではない。技術と資金を、そこへ振り向ける意思が足りないのだろう。


イタリアと日本は似たようなところがあると思っているが、災害対応という面で見ると、この国がいかに災害対応の後進国であることを実感する。
避難所で温かいパスタ? “先進地”イタリアの避難所

ただ、希望が全くないわけではない。こんな草の根活動が出てきたことは大きな希望だと思う。
空き地に簡易住宅「インスタントハウス」 車中泊回避へ自宅が倒壊した熊本の被災者を支援

災害大国に生きる身として、自分も明日は我が身だと自覚して生きるつもりだ。
自然という圧倒的な力に人間が無力なのは仕方ないが、逃げ方、受け身のような技をもっと鍛えていかなければと教訓にしなければならない。自分も微力ながら、その啓蒙の力になってみたいと思う。

非情だと思われるかもしれないが、自分は義援金を払ったことがない。個人の微力ではキリがないと思うからだ。災害が起きるたび、義援金やボランティアという個人の善意が呼びかけられる。もちろん、その行為には敬意を抱いている。しかし、本来の災害支援を、国民の善意や一時的な同情に依存させてよいのだろうか。不幸な人は日本にも世界にも無数にいる。個人の善意には、どうしても限界がある。

被災地への支援は、本来、政治の仕事だ。政治とは、集めた税金をどこへ振り向けるかを決める利害調整の機能でもある。災害が起きるたびに国民の義援金と現場の献身に頼るのではなく、平時から避難所、簡易住宅、衛生設備、食料供給へ公費を投じておくべきだろう。
災害対応は慈善事業ではない。災害大国に不可欠な公共インフラなのだ。

updated: 2026-08-03 21:43:35