戦争とスポーツ
サッカーのワールドカップが始まると、世界中の空気が少し変わる気がする。
普段はサッカーにあまり関心のない人まで、代表チームの勝敗を気にし、街には国旗があふれ、SNSでは歓喜と落胆で埋め尽くされる。理由はよくわからないが、サッカーには国民を一気に同じ物語へ参加させる不思議な力がある。
自分はスポーツにあまり熱狂する方ではないが、スポーツに熱狂する人たちを冷笑したいわけではない。自国のチームが勝てば、もちろん素直に喜ぶ。
以前、電車で同じプロ野球チームのユニフォームを着た夫婦を見かけた。これから球場へ向かうのであろう二人の表情はどこか楽しそうで、その姿は微笑ましかった。たとえ小さな幸せだとしても、この二人の幸せを誰が否定できるだろうか。
贔屓の野球チームを応援し、同じユニフォームを着て、同じ色の集団に混ざる。応援団と一体になって応援する。勝てば嬉しい。負ければ悔しい。それでも、翌日、翌週にはまた試合があり、来年もまたシーズンが始まる。それは、生活の中にある小さな祝祭のようだ。
一方で、ワールドカップの代表戦には、野球のペナントレースとは少し違う熱がある。
国旗が掲げられ、国歌が流れ、選手は「代表」としてピッチに立つ。四年に一度の短期決戦で、敗退すれば終わりだ。そこでは、一つの試合が単なる競技ではなく、いつの間にか国家の面子や国民の自尊心まで背負わされる。
サッカーはバーチャルな戦争のようにも見える。もちろん、現実の戦争とスポーツを同列に置くべきではない。現実の戦争は死者が大量に出て、町が破壊され、人々は住む場所を追われる。90分の試合に敗れたことと、戦争に敗れることはまったく違う。
それでも、構造だけを見れば、似た部分もある。「われわれ」と「かれら」が分かれ、旗と歌があり、勝利と敗北があり、味方には声援が送られ、相手にはブーイングが飛ぶ。選手は国家の代理人のように扱われ、敗れたときには、監督や特定の選手が共同体の怒りを引き受けされる。
「1984」で有名なジョージ・オーウェルは、スポーツを「銃撃のない戦争」と表現したそうだ。言い過ぎにも聞こえるが、サッカーの代表戦を見ていると、その感覚は少しだけわかる。スポーツには、国家間の対抗心や、集団への帰属欲求を、安全なルールの中で発散させる働きがあるのだろう。
本来なら、それは悪いことではない。現実にぶつければ破壊になるエネルギーをスタジアムの中で競技に変換する。試合が終われば、選手は握手をし、ユニフォームを交換する。観客も家に帰り、翌朝にはいつも通りの仕事や学校が待っている。それこそが、スポーツが戦争ではなく、平和である理由だ。
しかし、熱狂が競技場の外まであふれ出し、敗者への中傷や脅迫、相手国への敵意に変わったとき、何かが壊れ始める。選手は国民の怒りを受け止めるために存在しているわけではない。選手も監督も共同体の面子を背負う生贄ではない。集団心理という人間の業をスポーツの世界に持ち込むべきではない。
勝っても負けても、熱狂が試合の内側で終わること。そして試合の後に、相手も味方もお互いを称えて、一人の人間に戻れること。その境界線を守れるなら、サッカーは戦争の代用品ではなく、平和のための祝祭になれるのだと思う。もちろん、サッカーという競技への批判では毛頭ないことは最後に述べておく。
updated: 2026-06-29 19:30:13